源頼朝が征夷大将軍に任命されるともに京都で政治を執る「九条兼実」。

Ⅰ.彼の弟・慈円は歴史書であり仏教書である『愚管抄』を書きました。

Ⅱ.彼は法然に『選択本願念仏集』をきっかけを作りました。

Ⅲ.そして源通親によって政界から遠ざかることになりました。

この三つの側面を描いていきます。

Ⅰ.弟の慈円と『愚管抄』

天台宗の座主にもなった慈円の『愚管抄』は歴史書としての性格があります。神武天皇の頃からの歴史を振り返り、歴史を貫く道理を見ることで、仏法の深い意味を悟ると考えていたためのようです。そのため、武士が台頭してきた世の中も一つの道理であり、鎌倉幕府を打倒しようとする後鳥羽上皇を諫めるために、1220年承久の乱の前夜に慈円が後鳥羽上皇に対して書いたものであると言われています。

■➀出家する■

1155年、慈円は父・藤原忠道と母・加賀局から生まれました。しかし、1157年に母を、1164年に父を失い、六歳上の兄・九条兼実を父のように慕ったと言われています。そして、当時貴族の長男以外は親の菩提をとむらい、一族の繁栄を祈願する慣習があり、慈円を出家することになりました。1167年には天台座主・明雲について受戒をしました。明雲はちょうどこの年座主になったのですが、後白河法皇や平清盛の戒師にもなり、源平合戦に僧侶の身でありながら戦場において殺生し(後に慈円は『愚管抄』でこの僧を批判)、1183年木曽義仲の四天王に殺害されてしまう運命を持つ人です。

■②千日入堂■

1176年頃21歳のとき比叡山の無動寺において千日入堂という修行に入ります。このとき、当時の比叡山は学生と侍僧たちである堂衆との間で紛争があいつでいて、このような和平に導く力がない自分に慈円は悩みます。その一環として千日入堂という山籠もり修行をしたのかもしれません。因みに1175年まで法然も比叡山で修行をしていて、この比叡山ないの紛争に違和感を感じ、「念仏」が大切であることを悟り下山しています。ただ、慈円は兄の九条兼実と5年位話し合い、ついには僧として兄の朝廷での出世と形影を共にすることを決断します。

■③青蓮院■

慈円を受戒した明雲は一時問題起こし1177年に流罪になっているのですが、そのとき覚快法親王(鳥羽法皇の皇子)が座主をついでいます。そして1180年には病身のため、明雲が復活すると、この覚快法親王は比叡山のふもとにある青蓮院に隠棲します。この青蓮院は1150年に創建された天台宗の三門跡寺院で、多くの法親王など位のも高いものが門主を務め格式を誇ってきた寺院なのですが、恐らく病身である覚快法親王が務めることに無理を感じたのか、九条兼実が圧力をかけ弟の慈円にその門主を譲ることを迫ります。しかし、結局は翌年覚快法親王がなくなるまで待ってから慈円は青蓮院の門主になります(平清盛が亡くなった年)。この座円がいた時期が一番青蓮院が栄えていた時期だと言われています。そして丁度門主となったこの年に、9歳の親鸞が叔父に伴われて青蓮院に入り慈円のもとで得度することになります。また1185年に源平合戦が終わった年に、当時まだ5歳の後鳥羽院(後の天皇・法皇)の護持僧となっています。そして1190年、兄の九条兼実の娘・任子を後鳥羽院の女御として入内させてその際祈祷などした関係で、そこから長らく兄・九条兼実とともに後鳥羽院とは親しく付き合う事になります。

■④天台座主■

1192年、慈円は天台座主になります。この年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年ですが、公武合体を望んでいた兄の九条兼実はそれに賛同し、また後白河法皇はすでに崩じられていたため、後鳥羽天皇のもとで関白として影響力を強めていました。本人の資質もさることながら、この兄と源頼朝の力があってこそ、天台座主になれたようです。衰退していた天台教学を立て直すために、勧学講を開きますが、その資金を九条兼実を通して源頼朝に頼み込み維持費にあてることに成功しています。また同様に1197年、兄の九条兼実の失脚と共にこの第一回目の天台座主の座は下りることになります(ただしこの時の座主が最長でであります。全部で4回座主になっています)。

■⑤和歌と後鳥羽上皇■

兄・九条兼実は政界から離脱し、法然の支援などに回りました。法然は、政治と密着しすぎている仏教から離れ、念仏によって末法の世の中に誰もが仏になれる道を教えたそうですが、九条兼実は1188年くらいから交友がありました。政治と仏教を密着させた慈円と法然は対照的な存在とされ、兄九条兼実が法然のもとに最終的に傾倒したのは、慈円の教えの限界とされる事もあるようですが、九条兼実はかなりの期間、弟慈円と法然との交際は長らく並行しており、矛盾しないものとかんがえていたのかもと思ったりします。慈円は私的には阿弥陀信仰だったとも言われています。しかし、慈円はその後も後鳥羽上皇とは親しい中が続き、とくに和歌の資質は優れていて、『新古今和歌集』の編纂をすすめていた後鳥羽上皇とはその側面でも交友が続きます。慈円が和歌を心得たきっかけとして西行という人に天台の真言を伝授してほしいと申し出たときに、和歌の心得がなければ真言も得られないと答えたことがきっかけのようです(ただ西行の生涯と慈円がそれを受けた時期とかの整合性は不明)。慈円は百人一首にも収録されています。

■⑥承久の乱■

しかし、鎌倉幕府を潰し院政を断行しようとした後鳥羽上皇と、公武合体を望んだ慈円は意見があわなくなってしまい、互いに疎遠になります。ただ、鎌倉幕府において三代目源実朝が暗殺され、尼将軍と北条の執権政治になったとき、後鳥羽上皇と幕府は話がこじれ、ついに後鳥羽上皇はこの機を持って鎌倉幕府を潰そうと挙兵する「承久の乱」が起ころうとします。その前夜、慈円は後鳥羽上皇を案じて『愚管抄』を書き送りました。『愚管抄』は神武天皇のころからの日本の歴史を振り返り、そこで起こっている「道理」(ベクトルやムーブメントのようなもの)を読み解きました。その道理とは仏法が起こったときから時代が経つにつれ忘れ去られていく流れ(但し、復活し循環するとも考えていた)と政治がリンクしものと考えられていたようです。そして、その「道理」自体には「善悪」はなく、その道理を上手く生かすことでその衰退は遅らせられ、生かせないとその道理は加速すると論じ、今の武家社会の台頭は道理であり、むやみに潰せばよいものではないと後鳥羽上皇を諫めようとしたようです。これは天台座主としての「智解」の立場と、九条兼実の弟として公武合体を論じた立場を、仏教によって体系化した考えでありました。しかし、後鳥羽上皇は承久の乱で敗退し、島流しに合い、更に仲恭天皇が廃位されたことに衝撃をうけ、鎌倉幕府を非難する願文を納めたようです。そしてそのようなショックの中1225年に亡くなります。※『日本の佛典』梅原猛ら 、https://dananet.jp/?p=1628 、wikipedia「慈円」「愚管抄」「明雲」「青蓮院」などを参照

【鎌倉仏教史➀法然】源頼朝が征夷大将軍に任命されることを支持し、後白河法皇が崩じられた後の後鳥羽天皇の元で強い影響力を示した関白・九条兼実。彼が書いた日記は『玉葉』は当時を知る貴重な文献として残っているようです。しかし、その九条兼実も政治争いに負け、1196年に罷免されてしまう。そして後鳥羽天皇は後鳥羽上皇となり、院政を後白河上皇に続き再び始めました。その罷免された九条は政治の表舞台には戻ることがないのですが、それまでの日本の仏教になかった万人が仏になる教えを体系化した『選択本願念仏集』を法然に要請し、名著が誕生します。

Ⅱ-法然と念仏

■➀比叡山を下りる決意■

法然はもともとは、伝統のある比叡山で修行をしていました。しかし、そのころの比叡山は政治と密接に結びついていて、さらに比叡山内も組織ないでの出世争いなど俗界の延長にすぎない面があったようです。そのため、宗教に関する探究よりも組織での活動が主になっていて、純粋な宗教的要求を求めた法然には違和感が日に日にたまっていきました。1175年43歳のとき、善導という中国の浄土教の僧の『観経疏』に出会い、念仏こそが自ら求めていたものであることを悟り、ついには比叡山を下山することにします。因みにその6年後、9歳の親鸞が比叡山に修行に入ります。それはなんと九条兼実の異父母の弟である慈円(彼の『愚管抄』という当時の史料を残します)のもとで修行して進められたためだと言います。

■②九条兼実との出会い■

法然は比叡山の下山後、念仏を正法とした教えをちゃくちゃくと世間に広めていきます。このとき、まだ後白河法皇が崩じられる前の1188年、九条兼実の将来が期待されていた長男・良通が早世してしまい、その心痛から法然の教えを受けるようになります。そして1191年には、九条兼実の娘が受戒の戒師を決める際、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして招聘するまでになっています。その後、後鳥羽上皇が崩じられ、源頼朝が征夷大将軍に任命され、九条兼実が関白として政治の中心に位置する時期になるのですが、この時期は法然とどんな関係だったのかはよく分かりません。しかし、1196年に九条兼実が関白を罷免され政治から遠ざかると、法然との関係を深めたようです。そして、おそらく九条兼実は政治から離れたとは言え、まだまだ財力も領地も持っていたため、法然の布教に本腰を入れようと考えたのか、法然に念仏に関する教義の体系化を要請し、1198年『選択本願念仏集』が誕生します(九条兼実の要請の動機と目的は明確にはよく分からない)。

■③末法と念仏■

『選択本願念仏集』の「選択」とは、多くの仏教の教えの中から「念仏」を「選択」することを進めると共に、「念仏」を選択する根拠として如来が念仏を救いの本願として「選択」した、という2つの側面を持ったものであるようです。今までの比叡山や奈良の興福寺などを中心とする伝統的な仏教では、国家権力と密接に結びつき、しかも修行を積んた一部の人しか「仏」になる道が示されていませんでした。これ自体は悪い事ではないのですが、当時は「末法」という釈尊の教えが正しく行われない時代であるという思想が、僧兵の出現や多くの寺院が腐敗し退廃していると思われる状況が生じ、また武士の台頭など治安が不安定になっている社会状況が生じたため、多くの人に受け入れられていたため、すべての人を救う方法が必要になったと法然は考えられたようです。この法然の教えは、仏教史上初めて一般の女性にまで広く布教がなされ、さらに武家政権などによる新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まったようです。九条兼実が最初法然の教えに触れたのは息子の早世ですが、やはり関白時代に武家政権と京都の貴族社会の調和を目指した九条兼実にとっては、後鳥羽上皇の院政によって武家政権と対立が決まった今、少しでも他の貴族や人々の不安を和らげるため、法然の教えを支援したと考えるのが妥当なのかなと思います。

■④親鸞■

そんな法然の教えをまとめた『選択本願念仏集』が完成した3年後、9歳から20年比叡山で修行してたものの限界を感じた親鸞が、ついに比叡山を下山します。親鸞は聖徳太子が建立したといわれる六角堂へ百日参籠を行い、聖徳太子のお告げをきき、1201年29歳法然のもとに修行へ行くことに決めます。そして、みるみる才能が認められ1205年には一部の弟子しか認められていなかった『選択本願念仏集』の書写が認められます。その後、親鸞は結婚するのですが、それは九条兼実が絡んでいるという説もあります。九条兼実が法然を支持しつつも、本当に念仏は悪人でも救う事ができるのか疑問に思う所がありました。そのため法然の弟子に自らの娘と結婚させ破戒僧にしてみる(おそらく結婚が戒律にふれるのでは)ことで、その教えの有効性を試してみようと思い法然にそう話を持ちかけました。すると法然は弟子である親鸞を選んだと言います。

■⑤承元の法難■

法然は、確かに念仏を正法として選択すべきだとは述べましたが、他の教えを排除・否定はしなかったようです。しかし、その教えの普及度合いに危機感を覚えてか1204年に比叡山のなかでざわつきが起こり、1205年には奈良の興福寺が後鳥羽上皇が院政をしている朝廷に法然の教えが風紀を乱すものとして訴えました。後鳥羽上皇としても政治に影響力の強い藤原氏の氏寺である興福寺から訴えがきたため無視をすることができなかったものの、かといって積極的に弾圧するまでの状況でもないような気もあり保留にしていました。ただ、1206年に、後鳥羽上皇が熊野御幸中に、法然の門下のものが開催した念仏集会へ、後鳥羽上皇の宮中の女官数名が密かに参加し、この女官らがさらに教えを聞くため御所に門下のものを招き入れ、さらに夜遅くなったからそのまま門下のものをそこで宿泊させたという事件が起こりました。後鳥羽上皇にとって自分がいない中、御所に男性を入れたことにいら立ち、密通不義の行いを大義名分として、門下のものを処刑し、さらに法然と親鸞を含む弟子を流刑にする処罰を下しました。こうして1207年、法然は土佐国へ、親鸞は越後国へ流されることが決まります。しかし、九条兼実の庇護により、法然は土佐までいかず九条家領地の讃岐国へ留まらせました。そして1211年にようやく帰京することが認められますが、翌年の1212年に亡くなります。親鸞も1211年に帰京が認められたのですが、越後国はまだ雪が強く雪解けの時期を待つ必要があったのと、子どもがまだ幼かったこともあり越後に留まり、法然の死には立ち会えませんでした。ただこれによって東国の布教に親鸞は力を入れるのです。※『日本の佛典』梅原猛ら と、Wikipedia「九条兼実」「法然」「親鸞」「承元の法難」「慈円」を参照。

Ⅲ.源通親

『正法眼蔵』を著した道元の父親は、源通親という説があります。これは最近では根拠に乏しいようですが、道元が生まれた時代を考えるのに最適な人だと思います。

■➀内大臣■

道元が生まれたのは1200年の京都ですから、源頼朝が亡くなった翌年になります。この時、源道親は養女である在子が皇子を生むことで外祖父となり後鳥羽法皇の院政下での内大臣になったばかりでした。

■②藤原兼実■

1192年に鎌倉に幕府を開いた源頼朝は征夷大将軍に後鳥羽天皇のもと任命されました。今まで後白河法皇の院政が京都において影響力をもっていたのですが、源頼朝が征夷大将軍に任命される少し前に崩じられたため、源頼朝の征夷大将軍任命に賛成した摂関家藤原兼実が影響力を持ち始めていました。藤原兼実は、当時の天皇後鳥羽天皇にも慕われつつあったようです。一方、源頼朝の清和源氏とは別な村上源氏(村上天皇を祖とする)である源通親は、天皇親政の実現を理想として武家政権に対しては反対であったようです。

■③建久七年の政変■

しかし1195年源頼朝が東大寺落慶供養に参列するため5年ぶりに上洛した際、藤原兼実と源頼朝は会っているのですが、源頼朝の態度が変わっていて、藤原兼実は源頼朝の支援を失ってしまいました。更に追い打ちをかけるように、源通親の養女である在子が皇子生んだことが明らかとなり、廷臣の大半は藤原兼実に見切りをつけて、皇子を養育している通親の傘下に流れていったようです。そして遂に1196年藤原兼実はついに罷免されてしまいます。

■④後鳥羽上皇■

その後、1198年にはその皇子が土御門天皇として即位し、後鳥羽天皇は後鳥羽上皇となり院政が始まっていきます。そして、後鳥羽上皇と計って、源通親は鎌倉幕府の打倒を企てるまでに至るようです。そしてそんな転換期に道元は生まれました。

※『道元入門』秋月龍珉、またウィキペディアの「建久七年の政変」を参照

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